連帯をめぐって
- 2011.09.07 Wednesday
- 23:54
先日の合評会(重田園江『連帯の哲学 1 フランス社会連帯主義』勁草書房、2010年)など、連帯をめぐる議論には、以前からそれなりの関心はあった。ただ連帯の理念や思想だけでは、どうも旧態依然たるものを感じていたのも事実だった(件の本では、連帯主義、社会連帯主義、社会主義の外延と内包が気になったが)。
なぜ連帯しなければならないのかをめぐっての哲学的議論や理念のほかに、連帯を具体化するための制度構想、例えば保険制度の提唱など、興味深い提言はもろもろある。
旧来は、連帯の理念や運動について語っていればよかった。制度は道具的なものであり、二の次であるという認識が蔓延していた。「シソウ」を語り、現状批判をしていればよかった。
現在はさらに踏み込んで、制度について語るようになった。しかし、連帯を制度的に保障する根底には、人間とは誤り得る存在であるという当然のことが等閑視されていると思われる(これは3月11日に生じた未曾有の原発事故に如実に現れた事態でもある)。
制度を動かすのは人間なのであり、どれほど優れた仕組みでもそこのところへの透徹した洞察がなければ、制度はしょせん制度で、悪用も善用もされる。制度の運営に関わる「統治」という視点がすみやかに導入され、連帯の哲学とともに構想される必要がある(その意味で、失敗に終わったとは言え、オーウェンはいまだ魅力的な思想家だ。もちろんその前提にはベンサムがいるが)。
そもそも連帯とは何だろうか。人と人とがつながっていることは常識ともされている。仏教的な世界観までにはいかなくとも、人と人とがお互いに関係し合っているのは事実だ。
問題は、その関係し合っているという関係が、すべてを包含しているわけではないことだ。
『ビジネス倫理の論じ方』(ありがたいことに、今月で3刷りとなった)で吉野源三郎『君たちはどう生きるか』から次のような文章を引用したことがある。
しかし、現在生きている人々すべてと或る個人が結びついているわけではない。むろんそうした限定性を越え出て、結びつこうとする運動は有意義だ。しかし、そこでは、恣意的な線引きがなされている。われわれと彼らという、よく見る線引きだ。
その線引きがどこまでも恣意的なものなのか、それとも、合理的なものになり得るかは分からない。ただ連帯の幅をどこまで広げるにせよ、狭めるにせよ。連帯を実効的なものにすべき理念をもたなければ、お題目に過ぎてしまうのではないかという危惧が残るだけである。
なぜ連帯しなければならないのかをめぐっての哲学的議論や理念のほかに、連帯を具体化するための制度構想、例えば保険制度の提唱など、興味深い提言はもろもろある。
旧来は、連帯の理念や運動について語っていればよかった。制度は道具的なものであり、二の次であるという認識が蔓延していた。「シソウ」を語り、現状批判をしていればよかった。
現在はさらに踏み込んで、制度について語るようになった。しかし、連帯を制度的に保障する根底には、人間とは誤り得る存在であるという当然のことが等閑視されていると思われる(これは3月11日に生じた未曾有の原発事故に如実に現れた事態でもある)。
制度を動かすのは人間なのであり、どれほど優れた仕組みでもそこのところへの透徹した洞察がなければ、制度はしょせん制度で、悪用も善用もされる。制度の運営に関わる「統治」という視点がすみやかに導入され、連帯の哲学とともに構想される必要がある(その意味で、失敗に終わったとは言え、オーウェンはいまだ魅力的な思想家だ。もちろんその前提にはベンサムがいるが)。
そもそも連帯とは何だろうか。人と人とがつながっていることは常識ともされている。仏教的な世界観までにはいかなくとも、人と人とがお互いに関係し合っているのは事実だ。
問題は、その関係し合っているという関係が、すべてを包含しているわけではないことだ。
『ビジネス倫理の論じ方』(ありがたいことに、今月で3刷りとなった)で吉野源三郎『君たちはどう生きるか』から次のような文章を引用したことがある。
「僕は、寝床の中で、オーストラリアの牛から、僕の口に粉ミルクがはいるまでのことを、順々に思って見ました。そうしたら、まるできりがないんで、あきれてしまいました。とてもたくさんの人間が出て来るんです。(中略)工場や汽車や汽船を作った人までいれると、何千人だか、何万人だか知れない、たくさんの人が、僕につながっているんだなと思いました。でも、そのうち僕の知ってるのは、前のうちのそばにあった薬屋の主人だけで、あとはみんな僕の知らない人です。(中略)だから僕の考えでは、人間分子は、みんな、見たことも会ったこともない大勢の人と、知らないうちに、網のようにつながっているのだと思います。」この論法では、確かに、多くの人間とある個人とは繋がっている。しかも、つながりは同時代的なものだけではなく、時間幅を含み、歴史内存在として人間は在るのだということは事実認識でもある。
しかし、現在生きている人々すべてと或る個人が結びついているわけではない。むろんそうした限定性を越え出て、結びつこうとする運動は有意義だ。しかし、そこでは、恣意的な線引きがなされている。われわれと彼らという、よく見る線引きだ。
その線引きがどこまでも恣意的なものなのか、それとも、合理的なものになり得るかは分からない。ただ連帯の幅をどこまで広げるにせよ、狭めるにせよ。連帯を実効的なものにすべき理念をもたなければ、お題目に過ぎてしまうのではないかという危惧が残るだけである。









