偏屈の蕎麦考

  • 2014.10.26 Sunday
  • 01:24
学会の合間、お茶の水に来ていたので、神田まつやに足をのばして蕎麦を食す。

盛りそば650円。東京の蕎麦の価格としてはとても良心的で内容的にも満足がいくお値段(今日はゆであげた蕎麦のぬめりがやや残っていたが)。

個人的な好みとしては十割なのだが、蕎麦好きの人に教えてもらったところでも東京で十割を出すお店で満足のいくところはないので、二八でよしとする。

さて、タイトルに偏屈と書いたのは、蕎麦の食し方、楽しみ方である。

今日もまわりでそば好きな人々がそばを食していたが、一様に、つゆにしっかりつけて食べている。

蕎麦の繊細な香りや味わいを楽しむのには「そばつゆ」はかえって邪魔だ。そばつゆ味の蕎麦でいいのだということであるならば、言うべきことはないが、それだったら、麺の原料が蕎麦である必要はない(もちろん蕎麦でないとあの独特な風味なり食感は出ないであろうが)。

蕎麦通は食べ始める際に1本だけ何もつけずに食べるともいうが、1本だけしか蕎麦の繊細な風味を味わわないというのでは蕎麦好きではなく、そばつゆ好きでしかないだろう。

風味もないため、そばつゆにつけないと食べられない江戸期の蕎麦ならばいざ知らず、現代の保存状態のよい蕎麦を楽しむならば、惰性的にそばつゆにつけて食べるあり方は見直されていいはずだ。

確かに、なにもつけずに、また塩だけで食べるのは、どこか物足りなく感じてしまう。そのあたりはやりようがありそうだ。

ただこだわりの蕎麦屋はそれなりにあるが、肝心の蕎麦を楽しむということについては、どうも本質をはずしたところが多いように思う。

しっかりとした蕎麦打ちの技術が前提ながら、妙なつゆを開発したり、マヨネーズをかけたりするのではなく、蕎麦のよさを引き立たせる食し方をこそ目指すべきだろう。

批判・監視・民主制

  • 2014.02.19 Wednesday
  • 23:28
先週末からの大雪災害がいまだに予断を許さない状況であるが、オリンピック鑑賞やてんぷら飲食で後手後手にまわった安倍首相をはじめとする現政権への批判が噴出した。

そうした批判に対して妙な反批判が政権内部からも出ているし、首相が高級てんぷらを食べて何が悪いという頓珍漢なものもある。

またこうした政治家の落ち度について、批判ばかりするのではなく、建設的な議論をという声も根強い。

しかし民主制でのメディアや民衆の役割とは何だろうか。

まずは批判こそが主要なものであり、それによって政治の堕落・腐敗が防止されるはずだ。

いついかなる社会でも問題は山積みであり、それに対して、政府がどれだけ頑張って対応しようとしても、とりこぼれは不可避だ。だからいついかなる場合でも、政府は批判から逃れることはできないし、批判があることで改善の余地がどこにあるのかが明白になる。

批判ばかりされるのは辛いことかもしれない。しかしそれを辛いと思う人物はそもそも民主制の下での政治に向いていない。

批判をいかにかわすかを手練手管で行なおうとする政治家に対して、常に監視の目を張り巡らし、否をつきつけ続けることこそ民主制下において最も重要な事柄だ。

その点で、これだけ情報技術が発達したのであるから、在任中の政治家の仕事中は常にwebカメラで監視できるようにしてはどうだろうか。ベンサムの提案のように、官邸や議会をパノプティコン型にして公衆が監視するのも手だが、現代はもっと手軽に、それこそ安価に政治家などを監視できる。これを活用しない手はない。



 

能楽堂に思う

  • 2013.03.21 Thursday
  • 11:31
 昨日、渋谷能楽堂にて狂言と能の鑑賞。野村万作・萬斎親子『宗論』、櫻間右陣『当麻』。いずれも昨今観た中で、よい舞台だった。

以下のコメントはただ周辺的な、そして些細なことを。

例えば『当麻』の中に「たづきも知らぬ山中に」という箇所がある。字面だけ追うと、つい「さんちゅう」と呼んでしまったが、地歌が「やまなか」と歌い上げるのを聴いて、確かに、音で理解していた昔の名残というか、日本語の特性からすれば、ここは訓読みがよいのだろうと、今さらながら得心した(真実は違うのかもしれないが)。

能ではかつてありし人物が霊となって登場することがよくある(というかほとんどか)。そのような舞台を見る上で欠かせないのが「照明」だ。

しかし明治期の文明化の過程で、能舞台は欧米の文化(歌劇場)に倣って、室内空間へと閉じ込められた。問題は室内でどのような「照明」を行なうのかである。

現代では、謡本を読む観客のために客席も適度な照明がある。これがまず第一に舞台への意識を遠のかせるのでよろしくない。

第2に舞台も照明が煌々となって陰ができないようになっている。これがまた能の物語世界への飛翔を阻害する大きな要因だ。

現代の薪能においても、照明は薪だけでなく、ライトの補助がつく。谷崎が『陰翳礼讃』で慨嘆したように、陰翳のある空間を嫌う聴衆の好みに合わせて、光り輝く!?舞台になっている。

無表情を能面とも言うが、実は豊かな表情を表わすのが能面だ。それが最も効果を発揮するのは火によるものであれなんであれ陰翳が付くときである。その魅力を現代の能舞台はひたすら奪ってしまっている。

むろん演者からすれば、そんなことは百も承知であると思われる。分かっていながら、いまだハリウッド映画のような陰翳をつけない舞台照明で事足れりとしているのであるから、問題ではないか。

古典芸能の魅力は汲めども汲めども尽きぬ泉のようなもので、それを活かすことをもっと考えるべき時ではないだろうか。

魅力を伝えるには、かえって古の方法に学ぶ、原点に返ることも重要である。

原点はどこに定めてもよい。各人各様の考えに基づいて、原点は様々であってよいはずだ。

ただ能は明らかに中世的なものである。中世のイメージもまたさまざまあろうが、近世の明るい文化と対比されて、陰翳がより際立った世界でもある。加藤唐九郎が言うような暗さ(黒樂茶碗がそうであるような)が中世には付き纏う。

その陰陽というか彼岸と此岸の明白なる対比と相互浸透とに幽玄なる世界が生まれ出るのであれば、能舞台には「陰」がなくてはならない。照明によるのであれ、なんであれ、陰が重要である。

ソニーの世界遺産番組のCMでは、薪だけの能が映し出された。その折の能面の表情の艶やかなる、陰翳ある姿。あれをこそ生で観たいものだ。

連帯をめぐって

  • 2011.09.07 Wednesday
  • 23:54
 先日の合評会(重田園江『連帯の哲学 1 フランス社会連帯主義』勁草書房、2010年)など、連帯をめぐる議論には、以前からそれなりの関心はあった。ただ連帯の理念や思想だけでは、どうも旧態依然たるものを感じていたのも事実だった(件の本では、連帯主義、社会連帯主義、社会主義の外延と内包が気になったが)。

なぜ連帯しなければならないのかをめぐっての哲学的議論や理念のほかに、連帯を具体化するための制度構想、例えば保険制度の提唱など、興味深い提言はもろもろある。

旧来は、連帯の理念や運動について語っていればよかった。制度は道具的なものであり、二の次であるという認識が蔓延していた。「シソウ」を語り、現状批判をしていればよかった。

現在はさらに踏み込んで、制度について語るようになった。しかし、連帯を制度的に保障する根底には、人間とは誤り得る存在であるという当然のことが等閑視されていると思われる(これは3月11日に生じた未曾有の原発事故に如実に現れた事態でもある)。

制度を動かすのは人間なのであり、どれほど優れた仕組みでもそこのところへの透徹した洞察がなければ、制度はしょせん制度で、悪用も善用もされる。制度の運営に関わる「統治」という視点がすみやかに導入され、連帯の哲学とともに構想される必要がある(その意味で、失敗に終わったとは言え、オーウェンはいまだ魅力的な思想家だ。もちろんその前提にはベンサムがいるが)。

そもそも連帯とは何だろうか。人と人とがつながっていることは常識ともされている。仏教的な世界観までにはいかなくとも、人と人とがお互いに関係し合っているのは事実だ。

問題は、その関係し合っているという関係が、すべてを包含しているわけではないことだ。

『ビジネス倫理の論じ方』(ありがたいことに、今月で3刷りとなった)で吉野源三郎『君たちはどう生きるか』から次のような文章を引用したことがある。

「僕は、寝床の中で、オーストラリアの牛から、僕の口に粉ミルクがはいるまでのことを、順々に思って見ました。そうしたら、まるできりがないんで、あきれてしまいました。とてもたくさんの人間が出て来るんです。(中略)工場や汽車や汽船を作った人までいれると、何千人だか、何万人だか知れない、たくさんの人が、僕につながっているんだなと思いました。でも、そのうち僕の知ってるのは、前のうちのそばにあった薬屋の主人だけで、あとはみんな僕の知らない人です。(中略)だから僕の考えでは、人間分子は、みんな、見たことも会ったこともない大勢の人と、知らないうちに、網のようにつながっているのだと思います。」
この論法では、確かに、多くの人間とある個人とは繋がっている。しかも、つながりは同時代的なものだけではなく、時間幅を含み、歴史内存在として人間は在るのだということは事実認識でもある。

しかし、現在生きている人々すべてと或る個人が結びついているわけではない。むろんそうした限定性を越え出て、結びつこうとする運動は有意義だ。しかし、そこでは、恣意的な線引きがなされている。われわれと彼らという、よく見る線引きだ。

その線引きがどこまでも恣意的なものなのか、それとも、合理的なものになり得るかは分からない。ただ連帯の幅をどこまで広げるにせよ、狭めるにせよ。連帯を実効的なものにすべき理念をもたなければ、お題目に過ぎてしまうのではないかという危惧が残るだけである。

原発のリスクと人命

  • 2011.07.03 Sunday
  • 08:50
有名ブロガーの池田信夫氏の書いた「自動車や石油火力は原発より危険である」をはじめ、最近のツイッターでも、彼は反原発・脱原発の動きはカルトだとして批判している。

自動車と航空機のどちらが安全かといった有名な話については、リスク評価の在り方でどちらが安全かどうかは決まる(一般的には自動車の方が危険だが、こちらを参照)。

池田氏の上の論考に対しては、こちらの方の批判でほぼ尽くされているように思われる。

リスクに対して便益が上回るというのが原発正当化の根拠である。しかし原発の便益なるものが、よりリスクの低いもので代替可能である点で、これはなんら正当性をもつものではない。

正当性があると思っているのは、現在のエネルギー情況を前提にして、それを変えないというところから出発しているからだ。

また原発に関しては、軍事的な原子力利用と関連して、それが国際政治におけるヘゲモニーを得るための有効なカードであるがゆえに原発を手放すべきではないという議論もあるが、これは本末転倒だろう。

エネルギー政策は政治判断、単にやる気の問題に過ぎない。そのやる気がどの方向に向かうかは理念の問題である。理念なき政治にはかじ取りはできない。原発推進を行なってきた自民党にもその気概はないように見える。。。

また原発と自動車のリスクの比較については、「原発と自動車の危険性比較について」も参考になる。

そもそも原発の場合は、保険が適用されないことからして(もちろん原発の保険はあるが、そのカバーされる額は微々たるものでないに等しい)、リスクではなく不確実性の領域に入る問題であり、その意味で、リスク評価がそもそもできない代物でもあるとも言える。

リスクがあるかどうか、安全かどうかを死者を規準にして語る傾向は浅薄である。村上陽一郎氏が以前、原発で死者は出ていないのであり、安全なんだと力説しておられたことに驚愕した覚えがあるが、放射線に関しては、原発周辺への人的環境的影響を考慮に入れないといけないだろう。

しかも「ただちに健康に影響はない」と3月以降繰り返されている文言に表されているように、長期間の低線量被曝の実態は、敢えてかどうかわからないが、マイナーな研究者以外、手を出していない。

放射線治療の線量を持ち出して、現在の状況は安全だという主張も、放射線による人体への影響の点で、まったく異なるレベルの問題であるから、的外れである。

東大SPHのフォーラムでも指摘されていたが、放射線の人体への影響については閾値があるかないかをめぐって対立した立場がある。どこまでの被曝ならば安全だということが言えないという立場と、どこまでの被曝ならば安全だという立場との対立である。

こうした二つの立場があることからして、放射線の影響というのは未知数ともいえる部分がいまだにあるということであり、そうすると、安全基準というものは、もっと慎重に定められる必要がある(なお、上のフォーラムでは、こちらこちらでの発言が重い問題提起をしている)。

健康被害(一生、その傷を負って生きていかざるをえないような状況)が起きてから、規準を定めた時には分かりませんでしたで済む問題ではない。

正直、考えがまとまらないが、備忘録として。。。

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